「北極星を目指して」 (左脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

カテゴリ:銀の風 (霊能力) > 災厄シリーズ



こんにちは。


災厄って、今までは、実はブログに大きく書けなかった。

理由は、わたしが、そんなもんあるかと否定的だったこと、目の前で見たことのショック、そし て、実際に触ってみた感触(いい子は真似しないように)等が、あまりに衝撃的過ぎて、これは出せない話題だろうと思ってた。


災厄のひとつは、負の方向性を持った精霊がいるケース。

無論、精霊って言っても、何が何でもいい方向ばかりじゃない。自分にいい方向であろうと、自分が幸せをゲットすれば、その分不幸になる人がいるので、それは、あなたにとって、いい方向でも人には芳しくない。


もうひとつは、べたべたするスライムのようなもの。

鉱物オイルのようなべたべたした感じ。無論だけれど、祓えれば祓えるんだけれど、私の予想 斜めを突っ走ったのは、この災厄が、一家の誰かが背負ってたとする。

これを、祓ってしまうと、単なる祓い方だったら、正直に言えば、家族に移るだけであ る。非常に粘着性が強いものなので、あまり、ふっ飛ばしても、すっ飛んでいくということはない。

粘着性が強いので、ふっ飛ばしても、ごく近い何かに移ってしまうだけである。


それで、わたしは、自宅で人を拝見しようと決して思わないのは、この粘着性のものを祓うと、結果的に自分がもらうこととなる。下手したら、家族に障りが出る。なので、極力、自宅で物事を行わないのである。


ただ、遠隔の場合、この粘着性物質を引き寄せることは出来る。あと、送りつけることも出来るようである。

粘着性が強いので、こういうのが飛ばされてきて、びしっとくっついてしまった際には、どうしたらいいのかと考えてみたが、これは、とてもいい気の中 に入って、自らの張り付かれている中身の気をいい気に変えると、割と効果的である。

だが、基本的に、スライム状なので、粉砕することが、非常に難しい。我が家では、有難いことに、そういう粘着性のものがあったら、時間を掛けて少しずつ、壊して薄れていくと言う装置を作った。


ただ、勿論だが、使う術者にもやり方はあるだろうし、ついでに言えば、これを、壊して薄れさせていくと言う手法をとらず、遠隔で送ってきた当人に、スコーン と打ち返してしまうと、これが、また、どんどん大きくなる。

まぁ、大変災厄は処理に困るものであり、わたしも実は、ある時病院入院が終わるまでは、これの処理に困ってい た。

だが、現在では、処理法を、みつけて、そういう風に処理をすればいいのだと思う出来事があり、自身の中としては、楽である。


しかし、問題は、通年を通して、こんなブログでおおっぴらにやっているようなわたしは、人の恨みを買いやすく、人のねたみも買いやすい。勿論、リ アルの生活でも、自分の居場所は、他者を押しのけて作った場所である。なので、どこからうらまれても仕方がないと思っている面がある。


でも、それと、だから、災厄を送って人を恨んでもいいというのは、話は別である。


わたしには、その災厄を突破する方法を教えてくれる人がいなかった。だから、あくまで自己流に、あくまで、その時に、インスピレーションとし て得られる情報を元に、実験や検証を重ねてきた。自分が持っていない場合には、遠慮なく、災厄のあるところに赴き、そこで試したケースもある。そういう、 たゆまぬ実地訓練により、自分なりに、こうしたら、このスライムを何とかできるなと思う面はある。


ただ、ひとつだけ、使用を誤解して欲しくないのは、この特性を活かし、「災厄を気に入らなかった人に送ること」である。


勿論だが、過去に、そういうケースを聞かなかったわけじゃない。ひとが、自分にとって気に入らなくて、ついつい「不幸になればいいのに」と思うタイ プ。この人たちのこの行動から、そんな思いが、結果的に、思った相手の不幸に結びつくというケースは割とよくある。微妙なシンクロニシティというケースも あるが、この場合、粘着質のスライムもそうだが、負の方向の精霊を使うケースもある。


一番、こういうものから自分を防ぐにはどうしたらいいかと思う面で、考えられるのは、まず、人の恨みを買わないこと。

自分の立ち位置がどんなであろうと、その分のリスクは承知すること。リスクを防ぐには、ひたすら謙虚でいることや、当人の人格を問われることがすごく多いこと。

また、それでももらったら、どうしたらいいか・・・・・・・。

 

・・・・・・・・・・・問題はそこだ。

 

前は、竹炭とかに吸わせておけって思ってて、今でも、珪藻土等も、考える。けれど、身に染み付いた災厄は、なかなか取れるもんじゃない。だからこそ、ただ、塩風呂に入ればいいってことじゃなく、ただ、何かの行為をすればいいって事じゃなく、あくまで、

 

自分自身の内面を清らかにすべく、自身を精進させるって事が大事だ。


自分の中にある劣等感やコンプレックスは、結局、これらの災厄と凄く仲良しで、災厄が眷属になってもつまらなかろう。

だけれど、小手先のトリックを考え出す前に、自分の身の中に、何事も嘘偽りがないかどうか、そこを徹底追及することは大事である。神社のいい気に同調することも何もかも、そもそもは、自身の中が清らかではなくては、何の意味も持たないのだから。


それでも、災厄が多いとなると、災厄の変わりに何を得ているのかのバランスを考え、その後は、災厄を選ぶか、富を得るか、自由選択になる。

ただ、災厄って、そんなもんだよって話でした。

 


夏の災厄
篠田 節子
毎日新聞社
1995-03



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こんにちは。


その1で出た内容の中で、今回は粘着質系のスライムの話をしようと思う。


無論だが、これをブロックすることは、凄く大事なことだとは思える。しかし、実は、自分についた災厄を弾き飛ばして身を守るとする。

災厄は粘着質なので、遠くに飛ばず、自分の係累に色々な障りが出る。拝み屋さんを見たことがあったが、非常に上手な祓い手であった。その代わり、その拝み屋さんは、自分の係累に災厄をつけてしまうので、図らずし も、係累が困るということがあった。


しかし、拝み屋さんは、それでも、営業を続けていく為に、自分には被害が来ないように、一心不乱にお祈りし、一心不乱に色々行っている。

それ故に、その拝み屋さんに行くと、憑き物が取れたようになり、幸福になるという、そういう類の人は幾つか拝見した。確かに上手であり、確かに、彼女 たちや彼たちは、その粘着質を取ると、人の運が上がっていくと言うことを、理論では分からないけれど、実地で分かっているようである。


しかし結局、この粘着質は、電気と湿気とその他で出来上がっているので、時々、祓った人が自分に受けてしまうと、なんとも、恐ろしい話だが、祓った人が、心臓病で急に心筋梗塞になるという、真に不可思議な現象が起きることがある。また、祓った人が身に受けた場合、体力を消耗するような病になることもある。係累にとり憑いた時は、係累に異様に異様に事故が多い他、体に障害が出る等もあるようである。


それ故、粘着質の取り扱い方は凄く大変であるが、そこで考えて欲しいと思うのは、世の中、何をやってもうまくいかない人が、恐らく、この災厄と呼ばれる粘着質のせいであろうと考えて、これを取り払いさえすれば、いいのだと考えて、霊能者や拝み屋さんを回ることがある。


しかし、良く考えて欲しい。


取り払う前に、己はきちんと努力しているのかとか、己のやっていることは空回りではないのかとか、己は、自己中心的過ぎやしないかという面を考えて欲しい。何故かと言うと、どうせ、心持が卑しい人ならば、取払ってもまた着けて来るからである。


しかし、問題は、その拝み屋だったり、霊能者だったり、気功師だったりするひとが、粘着質のこの災厄の昇華の仕方を知っているかどうかによって、物事はまた変わる。

知っていなければ、彼らのところは、災厄ばかりで、結局は、何もない真っ白な人が出かけてみて、その人の災厄を背負ってしまうことってのも、普通にある。

こ れは、実体験だが、高名だと言われる人に、電話をしてある人を頼みたいとお願いしたことがあった。しかし、そこで忘れていたのは、わたしの癖であった。わたしは、遠隔が得意 で、人の背後にあるものを無言で引き寄せてしまうという癖を持っている。

なので、その高名な方に電話したとき、わたしは、瞬時に、しまったと思った。

何故なら、その方に電話しているときに浮かんでくるイメージは、全て、災厄系のイメージである。結果わたしは、それからまもなく、入院した。復活す るのに、復活しにくくなった。その当時は石を使っていたので、石代は馬鹿にならなかった。現状は、石を使わないので、問題はそれほど起きない。


この粘着質のものの面白さは、持っている人の心持によると言う点と、お人よし過ぎる人が、知らずに人の災厄を背負うと言う現実もある。

だが、祓いかたの方法より、まず学ぶべきは、当人の心持である。

ちなみに、気功師が、時々、一生懸命発して、粉砕するときがある。


無論だが、粘着質の粘着は、例えで言うなら、納豆のようなさっぱりではなく、粘着 テープが貼りついて、かなり経った頃の粘着に似ている。またもう一方では、オリーブオイルのようなさらっと感ではなく、もっと粘ついた工業用油のような感 じでもいいと思う。

これを、粉砕するのはどれだけ大変か、考えてみても分かるだろう。


自分ばかりブロックすると、周りが大変な目にもあう。何故自分が背負わなくてはならないのか、考える人も多いが、通常はお人よしが多くて、石 や何かの方法で一生懸命ブロックしても、家族に災厄が出るというケースがあるので、自分のプロテクト重視という考えは、やめておいたほうがいいと思う。

得てして、負のスパイラルに陥っている人は、必ず、根に、ろくでもない考えを持つ人が多い。強いて言えば、山師的発想である。

石でブロックできるなら、家族分買えばいいと考える人も安易過ぎるが、そんなことを言ったら、災厄分だけ石を買っていたら、マッチポンプである。

そうなったら、まず、自分の「不都合は、他人や誰か何かのせいにしたい」という発想を切り替えることである。


そして、あなたは、むやみに責任が取れないのに、同情したり、同調したり、リーディングしたり、何か感情移入をする無意識の癖を修正することを勧める。

災厄を負う人は、それなりの意味があって、それで、魂磨いているようなところはあるんだからね。人様の成長を邪魔しちゃいけない。

  

PS:粘着系スライムの取り払い方は、こすって落とすのが一番妥当な策だと思われる。故に、あかすり等は、取った災厄をその場で水で流すので、2度と付着しないし、人のを貰う必要もない。

練習を積むと、トイレに流せるようになるし、何かに頼るよりは、実際、スライムが自分に張り付いたり、自分のカバンにくっついたら、あなたはどう対処するのかという視点で考えて欲しい。

工業用油がついたら、あなたはカバンを捨てるだろう。

そんな感じで対処である。洗剤も、中性洗剤で事足りる時も、アルカリ性が必要な時も、油で出来た洗剤がいい時もある。

家の中掃除してたら、そういうひらめきが幾つもあることと思われる。

(うちの兄貴はどういう訳か、シーサーが好きで、門に一組、家の玄関に一組置いてある。どんだけ、シーサー好きやねん苦笑)


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災厄のてびき (MARBLE COMICS)
草間 さかえ
東京漫画社
2006-11

こんにちは。


災厄は、別に霊能者や拝み屋さんではなくても、祓って払い除けことは、努力次第で可能であるし、先天的に直感で祓いのけ方を覚えた人もいるだろう。


わたしは、わたしの実家に問題があって、そもそも、祖母が心配したとおり、わたしは強い感受性を持っていた。同様に、相手を素直に受け入れるお人よしだったので、なんにでも感応してしまって、なんでも持ってくることや、とかく、色々な災厄に見舞われることが多かった。

祖母は、わたしに対して、 特に厳しく当たり、よく伯母が、朋ちゃんはかわいそうだと言っていたが、それでも、祖母は、わたしに対して、色々な意味で厳しかった。


わたしの父は、災厄を良く持ち込まれて相談される人であり、母も災厄まみれになっている人の相談事を引き受けることが多かった。

二人して、色々な人の仲介役を勤めたり、ホント色々な揉め事に対して、あらゆる視点から引き受けることが多かった。その結果、わたし自身が、熱を出して寝込んでしまうこともあったり、意味深な電気帯電性質をスパークさせることもあり、親としては、係累への対応策のないまま、苦労したほうだとは思う。

今思えば、わたし自身が災厄と非常に相性が良かったのである。

災厄と「類友」だったのは、わたし自身であった。


父はある意味、凄く強い人だったので、人の災厄をもらわないようなブロックの仕方をそもそも心得ていた。

あのべたべたするスライムを、うまく、弾き飛ばすという技を心得ていた。同様にわたしの母もそんなところで、うまく弾き飛ばしている人であり、結果的に、わたしがそのべたべたするスライムを引き受けてしまい、親には、くどくどと、「お人よし過ぎるのは問題です」と、説教を食らうこととなった。

わたしは、あちこちで交通事故に出会い、現役の際の共通一次にさえ、その帰り道に、はねられてしまう始末である。

わたしの迂闊な面も考えたが、実は、その後、主人とめぐり合って、主人と結婚しても、しばらく轢かれ続けた。轢かれて、轢かれっ放しになって、学校や研究室に血まみれで出 かけたこともある。なので、わたしは、自分の自転車に乗ることや、歩いている何かが問題なんだろうと考えた。緊張感がほどけるのか、災厄を貰う事が多かったのか、災厄と似たような思考を持つからこそ、「重い」自分に、災厄が集まるのかとも考えた。

 

悩みを相談する人は、皆、それなりの災厄を持ち合わせている。何も全てが同じべたべたするスライムではない。

そのスライムをどうやって母親たちはやりくりしたのだろうと、今考えると、父も母も、決して、相談者に「同調」しないのである。

あくまで、彼らは、 自分の位置を決めて相手に対応していて、相手の立場に立って、相手の考え方を知ろうとはしなかったのである。相手を理解しないということは、ひとつのブ ロック方法である。分からないものは分からないので、憶測でものを考えると、微妙なシンクロナイズになってしまう、と、父は言っていた。


父は、わたしの苦しみに対しても、決して同調しなかった。理解はしていて、分かった上で、わたしがどんな目に遭ったとしても、生きてて良かったと言う人であった。もらい事故が多くて、そもそもありえない設定の事故が多かったので、父は、わたしに対して心配はしたが、あくまで、父の場所からの心配であっ て、わたしの立場や、わたしに完全に同調してなりきって考えるということはしなかった。


よく、巷にエンパスと言う人たちがいる。

彼らは、「同調が極めて上手で、他者との間に境界線がない」。ないが為に、苦労する面もあり、ないが為に、人に迷惑をかける面もある。リーディングが良 く出来るのであるが、問題は、彼らはその情報を自分にしまっておけないのである。何故かと言うと、相手に波長を合わせてしまい、その波長を読んでしまう。 街でとおりすがったひと、電車に乗り合わせた人、となりの部屋の人、なんでも拾ってしまう人たちがいて、こういう人が、災厄のべたべたスライムを多く受け 取ることが多い。

時々、死神を押し付けられて、それで大口の契約を取っているサラリーマンなどがいたり、時々、災厄を背負う代わりに、大きなお金とともに会社を辞め る人などもいる。それと同様に、何故か、マンションが建っていて、どこか一軒が、非常に問題がおきる場合がある。出入りが激しくて、そもそも、そのマン ションは快適な住環境なのだが、どうしても、その一室だけが、問題が多いこともある。

これも、やはり、なんというか、天然でべたべたスライムを弾き飛ばす人がいて、たまたま、その一室にそのマンション全員のべたべたスライムが集まってしまうという、真に不可思議な現象というのがある。


他には、町内で、そういう一軒があることもあるし、そういう一軒にならない為にどうしたらいいかと言う対策としては、なかなか有効な対策は見つから ない。確実に、どこかに、ハレがあれば、ケがあるのである。とても強い人がいれば、影にとても弱い人がいるのである。その弱い人でも、全てを受けている可能性もあれば、また、全てをその他の人に移して、何とか現状を維持している人も多い。

とにかく、みだりに他人に同調しないことが一番である。


自分の現状を確かめて、自分の現状のままに動くことが大事であり、他人の相談事に乗る機会が多い人は、出来る限り、「境界線を維持したまま」、 相談事に乗ることが大事だと思う。相手の身の上に立ってみてとはよく言うが、相手は、自由選択の末に、哀れな末期になったのである。それであれば、相手が 自由選択の基準を変える気がなければ、放っておけということとなる。

家の中でも、どこでも、強い人が知らずに弾き飛ばす災厄を貰いやすい人は、その自分を変える手段を持つこと、あと、住居でそういうスパイラルの住居に当たってしまった人は、幾ら防いでも今のところ、効果的なことはないなと思うことがある。


何でそうなるのか、何故ここなのかと言う理論の前に、べたべたスライムは、感受性が高くて、自分を持たない人に非常に集まりやすいので、気をつけよう。

 







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災厄
周木 律
KADOKAWA/角川書店
2014-05-31

こんにちは。


基本的に災厄はべたべたするスライムのようなものであり、非常に粘着度の高いオイルのようなものだという話をした。

オイルは、割と広がっていくのだ が、災厄は、広がるよりは、わりともったりと、その場に盛り上がるようなところがある。切って切れればいいのだが、切れば切ったで飛び散って、飛び散った カスからまた、災厄が増えるような始末である。

そんな理由で、非常にめんどくさいのだ。なんだか、単殖のアメーバみたいなものである。


災厄の1つ2つは、どんと来い位で、日常によくあることだからいいのだが、多くなるとどんどん、行き詰ってきて、やることなすことが裏目に出る。しかし、問題は、この災厄をどう避けるかということより、この災厄がどう増えるかと言うことに焦点を当てたいと思っている。


災厄は割りと、限られた数しかないのではなく、このべたべたするスライムは、割と増えていく。

増殖していくのだが、実際にこの災厄の増殖を防ぐと言うやり方が、実は建築学上にないわけではなく、照明の関係であったり、色々な色を用いることによって、更にその場に溜まることを防ぐことは出来る。


基本的に、人間は、ある種の匂いに敏感であり、ある種の匂いとは、実は、不衛生な香りが本能的には嫌いなのだ。だから、色々な場所でも、オープンし たてというのは割と、人に好意を持って迎え入れられる。だけれど、ある程度来客が来て、収益を施設の修繕費に向けて貯蓄しなかった場合、施設は次第に、す えた匂いになり、すえた匂いが人によって、生理的嫌悪感を産み、嫌悪感から、災厄が少しずつ降りてくるようになり、そして、溜まっていって封鎖になる施設もあ る。

そういう意味で、視覚に頼って増えることがメインではなく、実は、色彩感や、嗅覚に頼って、災厄は増えることが多いのである。


なので、よく、事故が多発する場所をリニューアルして、視覚や色彩感、嗅覚の災厄を防ごうとする計らいもあることはあるのではあるが、実はその場合、微妙なことを忘れていると思う。視覚の中で、全く気づかれない事なのだが、立地の抜群さである。

立地の抜群さというのは、事故が起こるところの場合、強いて言えば不条理ではあるが、仕方がない事だとも言える。


誰もが自殺したくなって、誰もが、自殺計画を立てる。それに対して、自殺とは、ある程度以上の強力な「力」に自分をゆだねなければならないので、致死量の薬物であったり、自動車に飛び込んでみたり、建物から飛び降りるにしても、それ相応のポテンシャルエネルギーがないと出来ない話である。

それ故、地域で特別高いところだと、それは良く目に付く。自殺者が、好んで飛び降りたがる場所がいつも同じなのは、べたべたスライムが、溜まりやす い場所であり、どんなにアロマのお香を焚こうとも、どんなに監視カメラをつけようとも、実際には、そこの立地が、あまりに不幸を決断するには、最適な場所 であるからである。


以前、わたしの実家の近所には、自殺スポットと言うのが、幾つかあり、飛び込みの場所とか、飛び降りの場所というのがあった。

なんでそこが流行っているのか、実は、健全な精神で出かけたときには、全く理解ができなかった。


その後、非常に自殺したい苦慮を抱えて生きているときに、ふとそこに行こうと思ったのだ。別に死ににいくわけでもなく、きっとそこに行けば、そこで 死に至る人の気分が分かるだろうと思ったからである。そして出かけてみて分かったのは、その自殺したい感情に刈られている人にとって、一種のそこが空間が 別になっているポイントなのだという事が分かった。


無論、それで誘われて自分が飛び込んじゃおうと思ったこともあった。それを止めるために、わたしの友人は、こともあろうに、私のほほを、ハイヒールでぶん殴って阻止した。

わたしの中の感覚としては、あそこは、生きている人からは分からない死角であり、死のうと思う人には、なんと表現していいか分からないが、特別な空間 なのである。およそ次元が違うと言うか、空気が違うと言うか。

健全な人には気づかない「ある意味の匂いとか、空気の淀みとか」とにかく、死にたいという欲 求を持っている人には、堪えられないスポットになっているのだ。


だから、そこを具体的に変えたいと考えるのであれば、これは、もう、その空間を壊す以外に他はないと思う。

遮断機の下りる寸前に、あの独特な感じが漂うとき、大体、飛込みが起きると思うし、実際、その時の感覚を元にして、時々、駅で物を投げたり、その人の 手を無意識に握って離さなくて、「ごめんなさい、人間違いだったみたい。」と、なんとも変なおばさんにわたしがなるのは、恐らくその空間の独特な雰囲気を 察知するからだろうと思う。


無論、全く健全な人にはわからない。

多少、大病を患ったり、体が弱くて、あれこれ勘が鋭くなった人には、わかりやすい独特の雰囲気の空間である。

それが、普段はない状態の場所に突如現れるのだ。そんなものは、闇雲に祓おうと思って、キエーって声を張り上げても何をしても意味はない。そもそも、あの空間が訪れないように策を高じるべきだからである。


そこで、一般的な健康な人が、心霊スポットに行って、分かることは特にない。その中で、特にメンタリティが弱くなった人に対して、そこにあった災厄 は伝染し増殖し、その人間を侵していく。そして、そのメンタリティの弱い人間の信頼度に応じて、他の人間もメンタリティが弱くなり、そこに向かって災厄が どんどん増殖していく。


ところが、これが、そういうスポットに出かけても、全くなんともならない人もいる。

ひとつは、サイコパス。そもそも、人を支配するためのネタにしたいが為にいくのである。支配するツールを探しに行くので、全く災厄なんておよそ取り 付く島もない。だけれど、それでも、そういうところを回ることを四六時中していると、やはり、少しずつメンタリティは侵されていき、結果的に、家中に問題 が起きることとなる。

もうひとつは、天然で弾き飛ばすことが出来る人。つまりは、災厄を見にはいけるが、災厄に「芯から同調しない」人である。

人には、それぞれ、ある程度、 自己犠牲精神と言うのがあって、これが、ひとの専属意識を満たすために必要なこととなる。ある程度集団に準じたかったら、サービス残業はつき物であると考 えるあの精神である。ところが、サービス残業をこよなく引き受けて、知らず知らずに、どんどん居る時間が長くなる人がいる。

つまり、キャッシュが溜まって、どんどん、仕事の効率が悪くなって、そして、結果的にサービス残業時間で終わらずに、仕事が出来ない人だと思われて、リストラ対象になるそんなひとである。


コンピューターにもあるが、ある程度、情報を得て働いたら、サーバーはシャットダウンしたり、コンピュータは、キャッシュのクリアとか、 クッキーのクリア、再起動をしないと、効率が落ちるものなのである。これは、機械ではあるが、学習していくと、結局余計なことまで色々考えてしまい、余計なこと に手をつけてしまいがちになる。そこを、きちんと、メリハリをつけて、自己管理が出来る人こそが、災厄を天然で弾き飛ばせる人なのである。


仕事とプライベートの境界線を良く守って、周りに準じていける人がいる。だけれど、時々、非効率な人がいる。非効率な人を見ていると、恐ろしいほ ど、仕事時間が長い。勉学にもいえるが、初めの頃は勉学のこつがわからないと、いつまで経っても、勉学の時間が長くなり、結果的に、量が増えれば増えただ け、勉学の時間がよりいっそう増えていく人がいる。非常にご苦労なことだが、ある程度以上になると、トリックやコツを使って、渡っていくことが、必要にな る。


災厄が重なってきて、どうも自分が身動きが取れないなと思ったら、せっせとこすり落としてもらって、弾きにいけばよろしい。

それを、あーだこーだ言って、策を練らない人は、結局は自己管理が極めて甘いのである。なので、溜まった災厄を、早めにクリアすることは、健全な普 通の人には出来て当たり前のことである。それを、メンタリティが弱い人は、結果的に、なし崩し的にその災厄をクリアせずに、いつまでも持ち越し、下手すれ ば、他力本願もいいところである。

自分で出来る部分を出来る限りやらない人には、災厄が溜まってて仕方がないのである。


さて、その死が近い人が分かる特殊な空間というのがあって、これが出来上がるまでに、割と時間が掛かる。

マンションのいつまで経っても空きが出ている部屋。良く人が出入りする部屋。そして、なんだか、よその人が勝手に入り込んで死んでしまう部屋。

決して、誰も住めないわけではない。住める人は、ちゃんといる。その部屋の特殊な空間に気がつかず、健全で、いつも明るく、キャッシュのクリアに長けている人である。

 






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こんにちは。


奇妙な空間という話を災厄4で 話をしたが、奇妙な空間、奇妙な雰囲気というものも世の中にはある。

わたしは、それを読むのに長けていて、誰に尋ねてもそういうものがあるとは、知らなかった。

幼い頃から図書館で本を借りたり、色々な自治体の本を借りて読んだのだが、何もそれらしきことは載っていなかった。


奇妙な雰囲気が漂うひとには、死が訪れるとか、嫌なことがあるとか、何か、とてつもないことがあるのではないかと思っていたことについて調べていた。また、奇妙な空間は、今まで普通に見えていた人が、突然、その空間の中で壊れていく。そういう空間でもあった。その雰囲気が分かると、中身が見えない封筒の中身でも、内容が判断できることもあった。また、電話が鳴る時のあの嫌な感じで判断してきたものの理由が知りたかった。


少なくとも、今のところ、その奇妙な空間に関しては、どういう風にして現れるのかは分からないのだが、処理の方法は分かっている。

奇妙な空間は、恐ろしいほど寒く、冷え冷えとし、畏怖感や恐怖感を煽る情報がたくさんあるのである。沢山あるのだが、ひとは、ほとんどを視覚に頼っ て判断するので、視覚に写らないことに対して、いたずらに情報が増えていくと、恐怖感で破綻する。

案外、弱いものである。しかし、その空間のほとんどの情報は、自分に対して、何か良からぬことが起きるなという何かの警告が発されるのである。その直感による警告にて、思いっきり、雰囲気に飲み込まれてしまいがちな人は、あっという間に情報処理に失敗するのである。


情報処理に長けろというのが、処理の方法である。

まぁ、そんな簡単に言わないでくれと言いたくなる代物だが、普通の場所にはこういうものは存在 しない。明らかに、駅で自殺を防ぐための電車のドアとは別のドアがプラットフォームについているが、あれは、見た感じは威圧感があるだけである。奇妙な空 間というのは、そういうものではなく、ひたすら、己の中の恐怖心を煽られるか、ひたすら、いい気分になって、連れて行かれるかのどっちかである。


ひとは、通常、情報量が多い世の中でも、割と取捨選択して生きている。

けれど、この空間は別であり、この空間の中では、取捨選択の前に、何か底知れぬもの、つまり、可視光線では現れない何かがあるのだという印象が芽生え、その際、逃げられない何かを感じさせるのである。それが、「神」というものの正体なのかは、わたしは分からない。わたしの知る限りの、奇妙な雰囲気 というのを、わたしは総称して、「死神」とか「疫病神」と呼ぶことがある。


そばに行ってみれば、分かるもんである。死神かどうかどころか、家に祟っているものかどうかも割と分かりやすい。

ただ、わたしは、幼い頃から非常に情報量が多く、情報を拒めない状態で生きてきて、何度か情報過多で、疲れて熱を出したこともあった。自分なりに情 報量を取捨選択しようにも、取捨選択しようがない。何でも受け取れば、何でも受け取れる始末である。だから、若い頃は特に、その奇妙な空間や奇妙な雰囲気 に飲まれることが多かった。

父親はわたしに、情報を少なく受け取ることと、そして、情報を自らが選んで受け取ることを提案してきた。

わたしはそれからしばらく、自らが選んで受け取る情報ばかりで助かったのだが、風邪をひいたり健康を害すると、あっという間に、選んだ情報ではない情報の洪水に押し流されて、災厄の渦中へ巻き込まれていくばかりだった。


情報量が多い中で、情報量の多さと情報量の質(恐怖心を煽るとか嫌になりそうなことばかり)を選べずに、友人たちは、次々に亡くなったり、気が狂ったりして、そういう場によくい合わせてたわたしが、「死神」というあだ名をもらうことがあった。

わたしは、とにかく、情報を受け取っても、必要のない情報を読み流しすることを訓練し、人の中を歩いても、「死神の隙」だけが見えるように自分を訓練していっ た。それ故に、わたしは、実は目をつぶっても普通に、物に当たらず、歩行者の多い横断歩道を目的地まで歩いていくことができる。

通行量が多くて、しかも、スクランブルだったり、単純ではない横断歩道の場合は、ひとはまず、そこで、目で見てしまう。目で見れば、無理だと思い込 んでしまう。やる前に、諦めるのだ。人にぶつかることは、何も目をつぶらなくてもよく起きることだ。しかし、ひとはまず、そこで、見た情報によって、自分 で判断するのだ。


何も、気だけ見て、渡っていけば、人の隙をちょっちょっと渡ればいいだけの話である。


わたしは、五感から来る情報量が多すぎたので、あえてそこで行ったのが、視界を遮り、隙だけ読んで歩いていくことであった。親はわたしに変な歩 き方だと言ったけれど、わたしは、人からや、場から来る情報を読むのではなく、人からや場から来る情報の隙間を縫う読み方を自分で練習したのである。そんな理由で、19位の頃には、みんなが苦労して横断歩道が渡れない状態で、わたしはすいすいと渡ったり、気がつくと、いいもののところに自動的に行くように、自分 の情報の読み方を少しずつ変える訓練をしたのだ。


そもそも、奇妙な空間や、奇妙な雰囲気を読むことは、これは簡単なことであり、読める人が多いのは分かる。非常に分かりやすく、強いて言えば、大声 のようなものである。大声がすれば、誰でも驚くし、その大声が何を話しているかで、人は恐怖感か、警告か、それとも、自分が呼ばれているのか、大体判別が つく。災いは、比較的に読みやすい。大声だからである。


反対に、幸運は、比較的に読みにくい。何故なら小声であるから。しかし、これも、よくよく耳を澄ますと、鈴が鳴ったような、涼やかな音色なので、割 と判別がつきやすい。しかし、通常、こういう音がメインなわけではなく、大体音で考えると、まぁ、どうでもいいような他愛無いおしゃべりが、他方向から聞 こえてうるさいような状態である。


だから、余計に、そういう他愛ないおしゃべりや他愛ない自己中心的な考えの声に、引きずられやすい人は、確実に情報処理の仕方が悪い。場に飲み込ま れて、自分を失って上がってしまう人、場に飲み込まれて、いつも思わない行動をとる人、ひとのせいにしないで、自分の情報処理の仕方を磨くことだ。

場はどうせ、自己中心を上手にすり合わせるくらいしか他にない。自己中心をすり合わせないのであれば、場がしらけていることだろう。だから、そうい う人のエゴが嫌いだと言わずに、人のエゴをかわして、読み流すくらいの力量をつけなくては、結果的に、奇妙な雰囲気や、奇妙な空間に出会ったとき、簡単に 崩壊してしまうだろう。


あと、時々、サイコパスや支配したい人が使う術だが、言っている言葉に、暗にネガティブなイメージを写し取って話をするひとがいる。聞けば聞くほど ネガティブなイメージが刷り込まれ、結果的に、そのインプリンティングによって、災厄を起こしてしまうか、災厄に出会ってしまう人もいる。別名「暗示」と いう。一見、ありがたいお話なのかと思ったら、災厄にまみれるようになるような暗示まみれの話であったのはよくあることだ。

そこは、何でも聞きに行くのではなく、普通にこんなことがありえないお話のどこに、巧妙にネガティブな災厄にあなたが会いますよと暗示されているのか、そこを見抜かないと、そういう暗示に引っかかる人は、簡単に引っかかって、事故にあう。


特に、天地災害の場合は、防ぎようにも防ぎようがない。だからこそ、こういうことに乗じて巧みに、暗示をかける人が多いのだが、ここは気をつけたほ うがいいだろう。何故ならこれは、なんのことはない。この災厄から逃れるのは、暗示をかけることを言い放つひとから離れればいいだけのことである。これ は、人災であり、災厄を起こしてやろうという人の暗示に過ぎないからだ。


奇妙な雰囲気は、割とこんな暗示をかける人から出来上がってくるケースもあるので、人災として片付けるとすると、まぁ、多少はやむをえないかなと思 う。ひとは、基本的に、見えない状態で、受ける危機感に関して、敏感である。親にそういう人を持ち、言葉でずっとそっと、暗示をかけられて育つ子供もいる し、妻にそういう人を持ち、ずっとそういう言葉でがんじがらめになる人もいる。その暗示を解くのが大変なのだが、だからと言って、やった当人が変わるとは 到底思えない。「ネガティブな言葉の支配」と言うのは、どこででもあることである。だから、距離を置くことが一番大事だ。


こんな暗示で災厄まみれになるほうがどうかしている。

災厄をつくりし、暗示をかけるほうは、いい加減なものであるが、大体ある程度、そういう人だというレッテルが暗黙上で貼られると、これは、因果応報 となり、その人の言うことは誰もが信用しないようになる。だから、こういう人は、割と、その集団にはじめて入ってきた人に向けて、情熱が動く。割と社交的 なのかと思いきや、陰湿な面を備えているので、割と付き合いにくい。陰湿な人の語る陰湿な暗示なので、気持ちが悪いのだと言われたら、それはそれまでなの である。

さて、奇妙な空間は、時々、あまりに見えないので、神のご到来か、死神のご到来かと騒がれるのだが、なんとも、結局は、五感といいながら、視覚しか信じない人の情報処理の弱さが浮き彫りになると思う。それで、実は奇妙な空間は、凄く厳かな雰囲気がするのである。

だから、わたしは、好奇心で、その後を追って、いつも、ノコノコ出かけていって、ひどい目に遭うのである。

しかし、実はわたしは、家族と一緒であれば、厳かな気配がしただけで、あっという間に、隙をぬって、一目散に逃げだしていく。


厳かだからか、やっぱり、よく目立つし、なんか非常に気になる。

 


ゆうれい談 (MF文庫)
山岸 凉子
メディアファクトリー
2002-08




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こんにちは。


誰もが心の中で不条理を唱える。理不尽だと唱える。選択の余地のない状態に追い込まれるとこのようにみんな唱え始める。

だけれど、災厄とは基本的に、不条理で理不尽なものだ。


その不条理で理不尽なものを説き伏せたいと思うのなら、身の回りの不条理や理不尽を、自分でどう捉えるのか考えてみて欲しいと思うことがある。身の回りには沢山ある。ネタには事を欠かない。だけれど、誰もが、不条理や理不尽を片付けるのに、「賞讃」を求めたがる。

賞讃がなければ、不条理や理不尽に戦いにいけないのか。


まるでそれでは、不条理や理不尽は、中世の「ドラゴン」のようなものではないか。

若い男は、人からの賞讃を得る為に、ドラゴンに戦いを挑む為に旅をし、結局、若い男は旅の中で、悟るのだ。ドラゴンは、自分の中にいるのだと。

どこの世の中も同じ事で、ヨーロッパへ渡っても、アジアへ渡っても、そういう思想がある。昔は、真理はどこにあるのかを訪ね歩いた人間が、やっと 知ったことは、真理は身の回りにあったのだと気がつき、戻ってきて若い者に、教えを解く。

いつもいつも、そのエンドレスドラマが、続けられているのは、ひ とえに、賞讃を浴びたい人が、いつの世もいると言うことと、そして、結局、騒いだ挙句、身の回りにあることや、自分の中が大事なんだと気がつく。

それ程、賞讃を浴びることは、人間の捨てきれない過程のひとつなのだ。


だから、みんな、何か新しいことはないか新しいことはないか、常にアンテナを張って、人の動向を見守る。

でも、真実は、ひとつしかない。身の回りの不条理を解き放ち、身の回りの理不尽を解放そうと考える。だけれど、生育環境は選べない。遺伝子は選べな い。およそ、同じところからスタートしたように見えて、少しずつ、伸びていく方には差が出てくる。差が出てくれば、必ず、優位に立ちたい人が、支配的な意 味をこめて、恐怖の暗示をかける。「お前は成功してはいけないんだ」「あなたは、こういうひとだから、これが幸せだ。」

しかし、自分に打ち勝つとき、勝ち抜ける人はどうやって勝ち抜いているかと言うと、自分の中に、ビジョンを持っている。


集中して、ことに当たるときにイメージをするのだが、明確であればあるほうが好ましいが、残念ながら、あまりに詳細すぎると、修正が効かなくなる。 それと、多少手が届きやすいビジョンである必要がある。運がどこまで続くかわからないのだから、手に届きやすくなくては、挫折感で人は折れてしまう。しか も、過去に仕掛けられた陰湿な失敗するぞと言う暗示には、負けてはならないのだ。


そもそも、失敗したらどうしよう、失敗したらどうしようと思えば思うほど、失敗するものである。

そういう思考の持ち主は、得てして、完璧主義が多い。自分に失敗を許さぬものは、他者の失敗にもとても厳しく当たる。だけれど、失敗はつき物である。失敗から人は多くを学び、多くを悟り、理不尽の出来上がった構成理由を見る。振り返らぬ者は、愚か者である。


そして、ビジョンはいつの時代でも、誰の心の中でも、失敗によって、「美しく」磨かれる。

磨かれることが多ければ、余計に光るだろう。磨かれることが多いと言うことは、卓越した成功者には、人には見せないけれど、とても失敗が多いと言う ことだ。振り返って失敗した現象にだけ囚われても意味がない。全ては、どうして失敗したのかの原因追求の為にある。失敗を恐れてはいけない。失敗は、玉を 磨く大切な試練なのだ。

だから、失敗したらどうしようではなく、「成功して、喜びに満ち溢れた状態をイメージしなさい」と、昔からどの宗教でも必ず教えるではないか。あれは、 それだけ、陰湿な暗示をかける人や、失敗で過去に苦労してきた先人たちが残した名案である。成功哲学と言うものは、いつだって、理不尽を突き抜けて、解消 し、昇華してしまった人が語る。

でも、いつでも、まるで、判を押すかのごとく、皆同じ事を言うではないか。

何故なら、結局、どんな状態にあったとしても、それが自分のライフセーバーだからなのだ。どんな修羅場に立とうと、どんな苦しみを背負おうと、明けない夜はない。空ける前の空は、必ず、絶望するくらい暗くなる。そして、日の出がくるのだ。だから、日の出を待つのだ。


自分の心の中の弱さに打ち勝て。目先の利益を取って楽な方向にばかり流されてきた自分を認め、その自分が選択してできてしまった現実を受け入れるの だ。どんな時でも、誰にでも、その弱さがある。どんな超人でも、どんな聖人でも、必ずその弱さがあり、彼らはそれを乗り越えてきた中で、気がつくのだ。

陰湿な暗示に負けない強力な自分自身を作るために、神がいるのだと。


神は決して、あなたを助けない。あなたがどんなに苦しくても、どんなに嘆いても、神はあなたを助けない。では、どうしたらいいのかは、昔から分かっ ていることだ。神に頼る前に、自らを鍛えよと。隣人に助けを乞う前に、出来る策を皆やり通せと。分からなかったら、知る努力をせよと。

昔から、昔から、悠久の時の中で、神はただそこにいるだけである。彼にとっての0.1秒は、あなたの人生が始まって終わるより、遅いかもしれない。


もし、そうだとしたら、神があなたに気づくはずはない。

気づくのは、あなたが残してきた業績である。あなたと、あなたの周りが残した過去から続く未来である。

理不尽な事実や不条理な事実は、自分のせいではなくても訪れるイベントで、だからこそ、人は嘆く。無力な自分を嘆き悲しむ。だが、だからといって、 進まぬ道は、死に値する。人は進んでこそ、未来へと繋がっていく。どんなに悲しい出来事が、過去のある日にあったとしても、きっと笑顔で、みんなのところ に戻れる日が必ず来る。

そして、その時、そのみんなだと思っていた人たちの、あまりの空虚さに驚く時でもある。

恵まれた人は、空虚である。言う事が重みがないのは当然であり、過去のある日のあなたを捨てて逃げ出した人でもある。だから、あなたは、そこへ帰る のであれば、あなたが見捨てない人になればいい。あなたがそういう姿勢なら、きっと、あなたに続く人は、人を見捨てない人になる。

けれど、依存させるのは、禁物である。あくまで、あくまで、当人の自立に向けて、見捨てない程度に助ければいい。

それで、進まぬ道を歩むものはやがて、自然淘汰となる。これは、悲しいことだが、動物の世界でも、植物の世界でも同じことである。生きとし生けるも のの、一生懸命生きる力が、世の中には残っていく。そして、世の中は、少しだけ、いびつになる。何故かと言えば、一生懸命生きる人だけが生き残っても、世 の中は、中庸ではないのだ。

足を止める人も、進む人も、何にも出会わぬ人も、全てがそろっての中庸である。

だから、不条理や理不尽は、己の中のドラゴンである。


そして、自分を持たぬ者こそ、災厄に襲われやすい。災厄は、自身を持たぬ者と非常によく似た類友である。あなたの人生が進めば、今まで出会った災厄とは中々遭うこともかなわなくなる。しかし、進めばまた新たな災厄がある。

災厄は公平にやってくる。得るもの得られないもの、その表裏一体の中で、心の隙を狙ってやってくる。





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こんにちは。

いや、いるんだ、こういう奴。

「死ねばいいのに」とか言って、本当に相手が不思議と「事故に遭う確率を高める」奴。

 

こいつら、全力で、どうにもなんないね。顔見ているとわかるよ。顔つきに出ているもん。

裏表があるような奴って顔に出るんだよ。上には、擦り寄ってすげー猫なで声で接するくせに、自分が下だと認定した相手には、もう、人間扱いしない奴。

反社会的な要素盛りだくさんの奴。こういう奴、大体、外で揉め事よく起こす。ついでに言えば、こういう性質だと、必ず晩年、孤独死するから見ててみな。

 

いやはや、思い通りにならないヤツに対して、呪いを送るような奴、もう、救いようないね。呪いが送れちゃうところが、ブラボーなんだけれどさ、(褒めてどうする苦笑)呪い送っても、意味ないよ。返されたら、結局は我が身に帰るしね。周りは意外と、見ているもんなんだよ。

 

そこで、ひとつだけ、不思議な話をしようか。

絶対墓まで持って行こうかと思ってたんだけれどね。

入院してた時、入院する時自体に、自分に災厄ってのがべったり張り付いててね。取れなかったんだよ。それで、どうしようか考えて、それで、入院しちゃったんだよね。まぁ、入院すればするほど、ドンドン貼り付くんだよね。しかも、両隣を挟まれた狭い中で、ひとりでいるわけ。

片方の隣は、なんか嫌なカンジがするんだよね。いや、嫌な感じとかじゃなくて、明らかに変なんだよ。

まぁ、性格にも難があったんだけれどね。それで、それらが、全部こっちにくるわけ。

 

それで、ある日、あんまり頭にきて、そうだ、一手に引き受けるんじゃなくて、人に移してみたらどうなんだろうって思ってね。

 

そんで、頭にくる方の人間に向かって、流したんだよ。

 

 

 

流して、一分くらいで、相手が、急に具合が悪くなってね。苦しいとか言い出して。元々、詐病気味な奴だったので、訴えても、医師の反応はなし。看護師も来ない。それで、わたしは思ったわけ。「ふうん。災厄って移動するんだ。」

 

それで、んじゃ、この際、病院だし、何かあっても、医師が責任とってくれるから、まぁ、全部流しちゃうかと思って、そいつに流したんだよ。

それで、流しきって、ブロックバリアを貼って、スッキリしてトイレに行ったんだよね。

 

トイレに行って帰ってきたら、妙に病室が騒がしいわけ。

 

そしたら、わたしの、反対隣の人が、起き上がってお茶を飲んでたんだけれど、心臓止まっちゃったんだよね。一瞬だったそうなんだけれど、医師と話を している間に、瞬間で、止まったんだそうなんだよ。それで、モニタリングしている看護師が慌てて飛んできて、よくよく、その人に尋ねようとしたら、もう、 答えられない。

 

それで、わたしが帰ってきて、自分のベッド見たらさ、仕掛けが壊れてやんの。

 

元々流した詐病っぽいやつは、結構なそれでも跳ね除ける力というか、そもそもが、術師になってもおかしくないほどの強さを持っているんだよね。それ で、恐らく、一瞬やられたけれど、跳ね除けた。跳ね除けて、わたしの簡易システムを壊し、簡易に仕組んだ仕掛けを物理的に壊し、そんで、その向こうの人の 心臓を止めたんだよね。

 

偶然だと思うかい?偶然にしちゃ出来すぎだね。

 

だから思ったよ。やや、こりゃ、本気で災厄というものは、取り扱いには気をつけないとと。でもね。結構、通常の人のアンテナで拾える災厄ってのは、 風呂入ったり、美味しいもの食べたりすると取れちゃうんだよ。それ以上はね。ある程度、自分が強くならないとはねのけられないんだ。

それは、修業をするとかじゃなくて、毅然とすることなんだね。つけこまれない凛とした佇まいを見せることが必要なんだよ。

 

まぁ、ちょっとした実験だったんだけれど、驚いてね。

結局、まぁ、そもそも、その心臓を止められた人は、医者がちゃんとケアをしなかったのが悪い。だから、ソッチのほうが悪くて、隙があったんだよね。

 

でも、災厄って結局、そういう感じでなすりつけることは出来るんだ。

そんなことするような奴には、なりたくはないけれど、どうしようもないときは、みんな、神社や寺で落としてくるでしょう?良い感じの森や山で落としてくるでしょう?結局そういうのって貯まるんだよ。浄化出来るだけの場所ならいざしらずね。

だから、今日も地下鉄の駅は、やっぱり淀んでて、そんなのを常に美しくご清浄にキープする策なんてない。ついでに言えば、裏表の激しい、いやらしい奴をどうしようと思っても、どうすることなんてできないよ。そいつらは、それで、少しずつ、精神的にネジ曲がって生育して、

 

巷的に言えば、ボーダーラインだね。

 

だから、人格障害なんて治しようがないし、そもそも、そいつは、結局は惨めな生活をおくるしかない。化けの皮なんて幾らでも剥がれる。まぁ、ほっとけ。

 

ほっとけないような状態になったら、あんたの負け。

 

 

美味しいものでも食べるとか、好きな音楽聞くとか、どこか行くとか、幸せになると、そんなの忘れちゃうよ。

馬鹿は死んでも治らない。だったら、放っておくのが一番だよ。そうやって、見捨てられて、哀れなざまになっても、知らねーってことよ。最後は自分の送った呪いとともに死んでいけ。それが、責任を負う真の大人の生活ってもんだろ。

 

 

 

図説 日本呪術全書
豊島 泰国
原書房
1998-09

呪いと日本人 (角川ソフィア文庫)
小松 和彦
KADOKAWA / 角川学芸出版
2014-08-14



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