メランコリー ―人生後半期の妄想性障害―
慶應義塾大学精神病理研究グループ
弘文堂
2008-04-18

こんにちは。

前回の続きで書いていこうと思っております。お付き合いの程よろしくお願いします。

さて、スピリチュアルでは、沢山の質問を受けます。殆どが、先祖供養の話だったり、神社のお札だったり、神社参拝のマナーしきたりだったりします。

そこで、単刀直入に言ってしまうと、先祖供養やお札やお祓いの事については、正直に言えば、やっていただけると、「坊主や神主が儲かります。」言われたその通りにしていただけるのであれば、定期的固定客として来ていただけるので、大変に有難い存在です。

しかし、先祖供養において全く効果がなかったという例はありませんが、あなたが絶対に該当すると言う確証はありません。なので、先祖供養をしていた からこそ、このような有難い目に遭ったという話があったとしたら、わたしとしては、あまりそういうことを真面目には受け取りません。「一つの偶然」として とらえていただきたいと思います。

また、お札の話になりますが、あなたが願をかけたことが叶ったのなら、お礼を兼ねてお札を返しに行くことは理に適っていると思います。

ですが、願が結局届かなかったのであれば、逆にお札を返しに行って、あなたは、その願が届かなかった理由について、ご自身を顧みてはどうでしょう か。ご自身で、油断した面や、無茶なことをお願いした可能性はありませんか。そうであった場合は、その自分を悔い改めるつもりで、お札を返して、そして、 その中で、悔い改めて出直してきますと言って、帰宅する方が一番だと思いますね。

もし、それでも何かにすがりたい気持ちがあるのであれば、それは、それで、別個の問題だと思います。

辛い時、誰かに頼りたい、甘えたい気持ちは凄くあると思いますが、あまりにお札を集めすぎて、これが叶った=XXのお札の所為と関連づけてしまうことは、やはり関係妄想なのではないかと思うのですよ。

そうなると、強迫概念のように、ネットを探していい神社、いい寺に行きたがり、闇雲にお札を貰えばご利益があると考えてしまいますよね。そうなると、立派な、関係妄想に該当するとわたしは考えています。

 

最近は、うちも受験ですから、色々に頼りたいとは思いますね。だからといって、あちこちお参りして歩くことがいいのではなく、その時の勝負運につい て、受験当人が「身構えない」でリラックスして臨めるために、そもそも「お札」というのはあると思うのですよ。あくまで、そういうのは、心の支えですか ら。でも、それを百パーセント過信するとか、先祖供養でもしたら、合格するんじゃないかという考えでは、既に負け組なのではないかと思うのです。

そう言えば、筑波大付属駒場高校に合格したご家庭がありました。

一丸となる以前に、そもそも、お父さんがずば抜けて頭が良く、論理思考の最たる持ち主だったんですね。お母さんも頭が良く、論理思考については、子 供のころから鍛えられてきたと言います。その中で、彼らが最終的に選んだ学校は、つくこまだったのですが、そのひとつの選択肢の理由は、つくこまの問題 は、ご自身の息子が比較的どこよりも解きやすかったという点がありました。

そのご家庭が頑張っている間、おばあちゃんは、気もそぞろで、神社の学問系の神様にお百度を踏んだと聞きます。ですが、先祖供養はあまり脳内にな かったそうです。そもそも、そのおばあちゃん自体が、年の割には相応な論理思考の主で、そのおばあちゃんのお子さんは、難関学校を出ている人ばかりでし た。

そこまで資質が備わっていて、そして、過去問が非常に性質に合っていたことが、合格の決め手だと思います。

決して、おばあちゃんのお百度の所為だけではなかったと思います。

彼らは、結局は湯島に願う事も、他で願うこともありませんでした。理由は、そこで風邪を貰っても困るし、結局は勉強の地道な積み重ねであると、当人を含め家族が分かっていたからだと思います。

そういう点から考えると、たまたま、そうであったけれど、実はその合格したお子さんは、大変腰が低く、傲慢なけらいがありませんでした。非常に親譲りの柔軟さを身に着けていて、これなら安心だねという感じの方でした。

 

ところで、そんな事情はともあれ、あなたは「神にお願いしても何か願望を遂げたい」訳ですよね。

 

でも、企業に入社するために、色々ご祈願する人もいますけれど、わたしからしたら、企業に入社することがゴールではないんです。婚活もそうですが、 結婚がゴールではありません。全て、それから長い事お勤めできるか、婚姻生活を上手に維持できるかの方が凄く大事なことなんですよ。だから、そこをゴール 地点と定めると、とてもなく、入社後の生活が辛く思えると思います。

それを今度は、先祖供養で、感謝感謝と連発する人がいますが、おごり高ぶらない人ほど、感謝とは言わないです。

そもそも、腰が大変に低く、何事からも学ばれるので、感謝と言う表面上の言葉より、「ありがとうございます。」という言葉をご使用になる方が多いで すね。それから、感謝感謝といっても、感謝していないのに、口先の感謝もありますので、どこまで「心からその言葉が言えるか」の方が大事ではないでしょう か。

 

確かに、先祖に感謝する時、先祖が色々な大変な修羅場を踏み抜いてきてくれたおかげで、現在のあなたがあるのですが、想像力に欠落した人は、その先 祖の修羅場に対しては、あまり理解が深まりません。そういう浅い理解のもとで感謝と述べても、実際の苦労が身に浸みてわからないままであれば、先祖供養を 続けたところで、覚悟ができず、転職、退職を繰り返すのではないでしょうか。

 

先祖供養を沢山してくれると、そりゃ、儲かるのは、先祖供養ビジネスです。色々な物販が繁盛するので有難いことだと思うのですが、しかしながら、全ては、結局あなたが責任を取ることであり、先祖が責任を取ることではないのです。

あなたが責任を取らなくてはならない大変なことに対して、あなたは、先祖供養や神社の御祈願を、責任の何パーセントに置きますか?

 

わたしだったら、先祖供養している暇も、神社の御祈祷をする暇も、全て心血注いで、全力で責任を取らなくてはならない現実に集中します。

 

しかし、あなたは完全に弱い。弱いからこそ、誰かに甘えたい。甘えることを許さない現代社会だからこそ、愚痴を言い合う仲間として選んだのが、恐ら くspiritualの仲間だったり、宗教の仲間だったりするのですよね。それでも、本当に愚痴をこぼしてあなたは前に進めますか。もっと、勉強できる人 間のもとで、切磋琢磨した方が、愚痴を述べ合うより遥かに効率的なのではないですか。

 

確かに先祖供養や神社祈願は、あなたの内省に対して非常に意味はありますが、現実はそんなに容易くないです。

 

何にもでも頼ってお札の数を多くして、あれはこれに効いた、これはあれに効いた等の関連性のないことに妄想を費やしたら、次の局面をあなたはどう切 り抜けるつもりですか。どんどん人生は、ひとつ難関を越えたら、もっと難関が待っています。そうしたら、あなたは一体何にすがるのですか。すがって、結 局、何が得られますか。集中力を得たいのであれば、家でもできます。

でも、あなたは形から入らないとできないのですよね。

それで、あなたはその局面の責任を取れるのでしょうか。

結局、当たるか当たらないかわからない神を闇雲に集めてコレクションし、あれこれ強迫概念のように、「行かなくちゃいけない」とか「呼ばれているからどうしようもない」と考えるより、地に足を着けて、

あなたを護るものは、ちゃんといるからこそ、あなたは今は地味な積み重ねを重ねて大きく花を咲かせなさい。

そう、わたしは言いたいですね。少なくとも、神社はしごや、寺はしご、古刹めぐりを越えた病的なお参りは、流石にどうかと思います。あなたは必死だと思いますが、周囲から見たら、「病的な神頼み」に見えることだと思います。

 

では続く。

 

妄想に取り憑かれる人々
リー・ベア
日経BP社
2004-02-05