少し前に、「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」(亜紀書房)という本を読みました。気になるので思い切って話しておこうと思いました。

清教徒という存在の集団がいます。彼らは、ごく昔(18世紀)の伝統を守り、18世紀風の服を着、18世紀に考えられた考えで暮らす人々です。無論ですが、科学などの存在は、否定はしないものの、受け入れることもなく、その当時の姿勢をずっと貫いて生きています。ですので、もっと楽になる方法があるのにと、電化製品にまみれた私たちが思う以上に、彼らの生活は、質素であり、簡素であります。

質素や簡素はいいのですが、戒律に非常に厳しい面を持って生きています。18世紀、キリスト教が支配した世界と同じ観念を持ち続けるので、人々は、車に乗らず、馬車に乗り続け、そして、電気を使わない生活をしています。教会へ行って祈ることもせず、実際には、聖書に基づいた生活を自主的に行っている集団です。何度も言うようですが、非常に聖書を元にした生活は、厳しいものです。ですので、戒律は厳しいですし、戒律を破ったものに対しての制裁は、並ではありません。

プロテスタントを軸とした宗教なので、特別に何かしつらえるという事はありませんが、聖書のとおりに生きる事をモットーとした彼らに、ある日、ある事件が起きます。

彼らの子供たちの学校にある日、銃を持った非教徒が乱入し、発砲します。子供は、折り重なるようにして倒れ、10名の死傷者が出ました。銃を乱射した男はその場で自殺してしまいます。子供たちの死を目の前にして、普通であれば、親は怒り狂うと思うのですが、彼らは数日後に、銃を乱射した男の両親を訪ね、赦しますと公言します。

この教徒の赦しという考え方が、あまりに異色過ぎて、本になったわけですが、随分前の本だと思います。

何故、彼らが赦すといえたのか、そこが問題なのですが、それがどうにも、彼らの基本思想にあるキリスト教が、いわゆる米国大国でのキリスト教と考えが若干違うようなんですね。無論ですが、同じキリスト教でも、アーミッシュは、確実に、聖書に書いてあるままに、キリスト教を受け取っています。実際には、秩序や、法などがあるとは思うのですが、彼らは、秩序に関して、恐ろしいほど、内方に向けた戒律を破った人間には、大層厳しく、陰湿な面を持っています。

ですが、どうして、違う考えをする人に対して、このような寛大な措置が取れたのかというところが、この本の特化すべきところです。

彼らの中では、昔の日本の村のように、村の掟を破れば村八分だったり、それなりの戒律を犯した処分が与えられるのですが、キリスト教の聖書に書いてあるとおりに、彼らはそれでも、自分を傷つけたものを赦し、また、他者を傷つけたものを赦そうとする。

赦しというモノは、簡単に行えるものではないんですね。けれど、聖書には、何をしてもそのものにはそのものの主義主張があった事を認めて、赦しますという明文があります。そのとおりに、彼らは、何があったとしても、それを運命と受け入れて、自分の中に、赦しを宣言して、自ら、赦しができる人間になろうと努力していくところが、今の人間にはない「赦し」を持っているんですね。

まぁ、世の中、不条理を受けて、目の前で子供を殺されて、赦しますとは、誰もが言えない。

その中で、アーミッシュは、赦す事を自分に公言することで、課して、自分の中の精神力で、悲しみと喪に服する気持と、そして怒りを鎮めて行こうとしているところが特徴的なんですね。実際に、彼らの生活は、聖書に則って生きていますから、まぁ、あながち、バイブルに書いてあることが全て正しいのであれば、このようにも生活できるでしょう。だけれど、あまりに異色過ぎて、当時では、脚光を浴びたんですね。

ところで、日本人の中のスピリチュアルを意識している人には、こういう思考で生きている人も多いのですが、昔どおりに生きる事や、昔に戻ろうよと持論を持つ人もいます。ですが、人を喪することを、自発的に赦せる人がいるとしたら、法は成り立ちません。

ですが、彼らはそんな戒律が厳しく、自らの運命を赦すように動いていて、辛くはないのかと思うことがありますが、実際には、下手な犯罪者が出ず、ある程度の性犯罪は隠匿され、そして、人々は、幸福を感じて生きているというところが、驚きではあります。

まさか、今のあなたに、全てを赦せといえる部分はありませんが、運命の歯車に巻き込まれることを、自発的に赦していくとなると、どこがあなたに足りない課題なのか、それをきっとアーミッシュは考えながら、厳しい戒律の中で幸せを掴んだのかもしれません。

キリストは、十字架に繋がれ、槍で刺されながら、「主よ、主よ、どこまで私をお試しになるのですか」と呟いたといいます。そして彼がたどり着いた先は、「全てを赦します」でしたから、きっと彼らの考え方の極論はそういうところかもしれません。

実践するのはきわめて難しいですが、厳しい戒律を守り続ける彼らには、容易いことかもしれません。きっと実践した先には、彼らなりの幸せがあるのでしょう。

悲しみに囚われることなく、自らが進んで、赦せる人間になれという厳しい話でした。
でも、実は、誰かわからない何かのせいにするより、自分のせいにした方が、心が楽になるという話でもあります。