こんにちは。


わたしは、中学の時は成績こそ良いが、実はトラブルメーカーだった。

あまり思い出したくない思い出だが、実は、中学受験に失敗した時、実母が 凄く怒った。受験の時に本番で白紙で解答用紙を出したというのがばれてしまった。それで、真面目にやろうと思わなかっただろうと問い詰められ、蹴られ、殴り飛ばされ、手ひどい思いをした。

そこの学校は都心にあったので、こんな田舎町からそこまで毎日通えるとは思えなかったし、塾通いで朝から晩まで都心に出ていたからこそ、始発の電車、遅い電車で帰宅する兄を見ていて、嫌気がさしただけだった。

ところが実母は、それを根に持って、いつまでも、中学生のカバンや制服を買ってくれるとは言い出さなかった。


きっと普通の品は買ってもらえないと思い、自分でショッピングモールで、中古のカバンを探してきて、親にそれを買ってくれと言い出してみた。新品を買ってくれるかと、少しは期待してた。

ところが、親は、中古で十分だとか、お前自体が、「三流品」だとか、まぁ色々ののしり、結局、新品のカバンを買わず、その中古のカバンを買って終わりにした。

情けなさで心折れる思いだったけれど、制服は新品だから、我慢してそのカバンで一年目に通った。教科書が入りにくいカバンなので、クラリーノだったら入っただろうになと思いながら、カバンに入らないので、教科書は学校に置きっぱなしにする癖がついた。

まぁ、持てない冴えない小学生と打って変わり、モテモテで楽しい中学生活だった。元々、 煽動して行くことが得意なので、知らずに扇動してたのか、別のクラスは皆崩壊し、荒れ果て、クラスの壁がぼこぼこに歪む中、うちのクラスはそんなことがなかった。それでも、崩壊したとはいえ、あまり大したヤンキーぶりじゃなかった。


ところが、親の事情で途中で、都内に転校してみて、始めてあのカバンはいわく付きだという事が分かった。

転校して、数日後、カバン検査というモノが行われた。カバン検査ってなんだろうと思ったら、カバンから教科書を抜けと教師は言う。抜くも抜かないも、そもそも入らないカバンだから、そのまま下げておいた。

すると、教師が怖い顔をしてわたしをみて、こう言った。「芯抜いたのか。」

何の事だか、意味はさっぱり分からなかった。芯をどうして抜くんだろう。このカバンは買った時からこんなサイズでしたと話をしたが、教師は聞き入れず、親が呼び出されることとなった。

そこで、親は、「この子に買ったカバンには娘は手を加えていない。はじめからこういうカバンだった。そもそも中古のカバンだ。」母親は、顔から火が出る思いで、教師の前にたたずんでいた。母はとてつもないお金持ちの家から嫁いできた。カバンが買えない程貧乏ではなかったのだが、買い与えたカバンに恥をかかされるとは。


その中古は、芯を抜いて、薄くしてあった。それで、教科書が入らないわけだ。ところが、田舎から出てきた転校生は、その事件で、一躍「時の人」になった。 成績は凄くいいけれど、不良の持つ薄いカバン。

転入当初から、薄いかばんかよ、お前最高じゃん、そう、友人に言わたが、わたしは、さっぱり意味が分からなかった。不良がよくわかっていなかったんだろう。

まぁ、カバンのせいにしていたが、小学生の時から、元々、教科書持ち歩きしなかったから、あんまり不便じゃなかった。

全て教科書は、貰った当日に目を通して、そこそこ暗記レベルまで読み込んで終わり。だから、そのまま教科書は、「机の中」か、「ロッカー」 へ。いじめで、わたしのロッカーが蹴られて開かなくなった時は焦った。なんせ、教科書が出せなくなる。机の中は、掃除をするときに、同級生に入れておくと嫌がられる。

他の子たちは重い厚いかばんを抱えて、わたしは薄いカバン で登下校。傍から見てれば、ヤンキーなのか、それとも単なるズボラな成績優秀者なのか、分からない。当時の不良とは違ったのは、わたしのスカートは、当時からウエスト巻き込んでミニスカートだったことだった。凄く長いのが不良の間では流行っていたけれど。


カバンから、授業姿勢まで首尾一貫して、結構色々言われたけれど、当人には教科書を持って帰らないことが何が悪いのか全くわからない。宿題も学校で済ませてしまうため に、全然困ったことがない。

それどころか、家に帰ると、勉強どころじゃない。兄貴が日々の自分の予備校や卒業校の生徒からいじめを受けると荒れる荒れる。あの当時、金属バット殺人事件等がよく事件として挙がったが、兄は、四六時中ナイフを手にし、木刀を持っていた。兄は高校でテニスの大会に出場しただけはあって、スマッシュ力も高い。その兄に呼び出されて、壁に立ってろと言われ、そこから5メートル先で、兄がわたし目掛けて、スマッシュを打ち込む。気が済むまで、わたしは、スマッシュの的となった。

父親は、初めての癌で死線を漂い、実母はその看病で付きっ切り。兄とは、家では、互いに、気が済むまで殴り合い仲裁してくれる人が居ないままにヒートアップ。

わたしは、夜中、10円持って公衆電話に出かけていって、病院へ電話をして、泊まっている実母の声を聞いてから寝ないと気がすまなかったし、どんどん夜、お礼参りが忙しくて家に帰らなくなった。


塾じゃ、苦労せずに満点。だけれど、わたしは、兄貴が勉強している横で、必死に兄貴の解いている数学を解こうとし、いじめてくれる兄の後を懸命に追った。中学3年生が、高校卒業者の しかも、数学が超得意な兄貴に敵う訳もなく、敗北感丸出しで、それでも見失わないように、必死に兄貴の後を追った。

学校では、わたしに文句を言う教師はいなくなり、わたしは文字通り、優秀の中で歩きながら、心の中は不安定さで一杯で、溺れそうな思いで辛かった。今、このいじめる兄の手を放したら、わたしは、もう奈落へ落ちてしまう。なんでもいい、這い上がって生きてこれればいい。そんな思いだった。


兄貴は、程なく、地方の医科大学へ合格していなくなり、父が病院より帰ってきたときには、味気ないほど静かな環境で、今度は、自分だけに親の目線が注視されて、居た堪れない生活が待っていた。


親は私のできように凄く満足しており、この子なら大丈夫だと言う。教師からや、通学中の「性暴力」に困っていることを親に訴えても、親は知らない顔。高校二年生のときにわたしは、ついに爆発してしまい、実母と実父は、同じ部屋に寝ようとはしなくなり、事実上の「家庭内離婚」へ向かった。実母は、わたしの無茶ブリに驚き、父は、変容振りに啞然。

殴って言う事を聞かせてきた父は、黙るようになり、わたしに向けて暴力をふるうのではなく、わたしの私物を破壊することを始めた。

わたしは、親に「出てけ」って言われたら、「出てって死のう」と計画していた。正当な理由が欲しかった。自殺のことは分かっていて、薬も沢山の場所から、印鑑を持って出て、沢山買い集めたりした。高校3年になると、わたしの言動は至って危なくなり、自殺しかねない面が強くなった。自暴自棄で、死にたがりになった。友人のいじめは加速度を増し、歩道橋から突き落とすことがあったり、車道へ押し出すこともあり、わたしには、もう、あの時のような「すがる手」も見当たらなかった。

それを父親は見抜いて、暴力をふるったり、「出てけ」とは言えなくなったという。お前の兄は「でてけ」と言われたら、出て行って、12時過ぎにこっそり戻ってくる、そんなところがあった。けれど、お前は違う。お前にはもう言えない言葉がある。


「お前が生まれてこなければ良かった」とか「でてけ」とか言ったら、お前はきっと数時間後に、死体で家に帰ってくる。


お前はやると言ったら必ずやる。だから怖いのだ。普通は、その言葉を半分に 受け止める。けれど、お前はそう言われて、死ぬのを待っているし、その言葉が出るのを煽っている。それを思ったら、幾ら親が、八つ当たりしたくても、グッと飲み込まなきゃいけない言葉があるのだ、お前には。お前はあの時、覚悟したんだな。もう、死ぬ覚悟を決めたんだ。だから、お前には、生きててほしくて、どうしたらいいか分からなくなってしまった。

お前が欲しがるものを買ったら、「こんなもんで、あたしが買えると思うなよ。」と地獄を這うような声で言った。お前は、全てを恨んで、全てを憎んで、全てから、消えたがった。


どうしたら、ここまで壊れた娘を取り戻せるのか、分からなかった。だから、結婚して出ていくと言い出した時は、相手が少しでもお前に幸せにしてくれるようにと願った。けれど、結婚式の少し前、お前は相手の両親に絶望し、破談を申し出れずに、自殺を図った。

父として、お前は嫁に行かなくてもいいと言いたかった。でも、お前はきっと、生きてくれると、親の心の意味を分かってくれると思った。ふがいない親で申し訳なかった。お前は、お小遣いでなんでも俺たちにプレゼントを買ってくれて、お前は中古品で我慢してたのに、俺たちはお前に八つ当たりばかりして、暮らしてきたんだ。

お前が幸せになる道として、お父さんとして最後の意地を見せて、お前を嫁がせる。どうか、幸せになってくれ。


父が生きてた頃書いてた手帳が見つかって、そこには、こんな事が書いてあった。


持てる者、持たざる者を経験し、「自分が幸せ」だと思えるようになるまでに、色々な経験を積んだ。無駄だった と思うことは何一つない。幸せになる幸せの方角なんて、青春時代には全く見えなかった。仕事をして、死ぬほど働いて、お金が正義だと思ったこともあった。でも、お金は幸せを運んでは来ないことも知った。子供を持ってみて、分かることもあった。


息子達の学校で、必ず、子供が親に「僕、生まれてこなかったほうが良かった?」と聞くという。恵まれている環境の子供は流石だと思う。言う事が違う。自分で、「その言葉の残酷な意味さえも、知らずに言える」。

この強さが、恵まれている証拠。意味を知ったら、誰だって言えな い。先日の邪悪(その1)ではないけれど、その言葉が後々もたらす大変な悲劇を予想しながら、「残酷な事を言える」人はいない。誰もが言う。「悪気はなかった。」

それは、結局、わたしは馬鹿だったという懺悔の言葉なのだろうか。あまりに簡単に言える懺悔ではないか。それは、懺悔ではなく、言い訳だ。


満たされている人は、失う事の大きな悲しみを想像できない。失い始めている人は、更に失う事への怖さは、恐怖心だけが募って、何一つできない。心の悲しみも何もかも、その人が得る悲しみを完全に分かる人などいない。分かってあげられるのは、自分だけなのだ。どうこのきつい現状を、諦めずに切り裂いて進むのかは、あなた次第だ。
諦めるのは簡単で、誰かのせいにしたり、境遇のせいにするのは簡単だ。
でも、それでも、あなたより進む人がいるのなら、その人は、涙を流しながら苦労して進んだのだ。その人の努力を正当に讃えなければ、その人も進む道を見失ってしまう。

残酷な言葉を吐ける人は、想像力が少なく、被害妄想気味で、攻撃的になる。
でも、もうじき、あなたは、その甘ったれた姿勢をもう許されない社会に存在することとなる。そうなった時、あなたの人生は、涙を流して苦労して進んだ人の「税金」で養われることになる。

くだらない言い訳や文句は聞きたくない。

 


福祉の仕事に就く人に、絶対に読んでほしい55の言葉
阿部 美樹雄
大揚社
2011-06(福祉でお目にかかるのは、人生努力しないで享楽的に生きた人が多い)

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和田行男
NHKエンタープライズ
2013-08-23(反対に、この人はこんなに頑張るのに、どうして福祉は見逃すのかと涙したくなる事実がある)