「北極星を目指して」 (左脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

こんばんは。

わたしの母と父は、博物館が好きで、絵画鑑賞が好きで、彫刻とかも見に行く人だった。日本のどこにでも、わたしと兄を引っ張って、見に行った。特に、上野は聖地のようなもので、何かあったら、直ぐ上野。

正月前は、それに御徒町アメ横巡り。

父は、娘の手を引き、マグロを値切って楽しそうだった。わたしは、人ごみでゲロゲロして、お漏らししても、替えのパンツがあるからいいさ、の勢いで、練り歩いた。

わたしは、帰りには疲れて歩けなくなり、宇宙語を話し出しよく熱を出したので、父は、わたしを背中にオンブして、帰ってくれた。

帰って来て、お風呂屋さんに行く時は、寝ているわたしをオンブして、家族4人で、桶を持って、隣町まで出かけ、お風呂についたら、起こしてくれて、母と温まったら、また、父が担いで、家まで連れて帰ってくれた。

わたしは、そんな父親が好きで、背中が暖かかった。

分からない印象画を見るより、日展とか、油絵ばかりだっだ記憶もあるけれど、上野は、よく展示会をしてたので、出かけて、それが幼い頃の娯楽だった。

親は、決して子供用の商業施設に、連れてってくれることはなくて、動物園より、絵画鑑賞が多かった。近所の図書館で本を借りに行く週末も、父の後ろに乗って、自転車で行った。

眠ったようなわたしを、父がオンブしてた時、母はこう言った。

「この子は、パパの一生モノ」

父は、お嫁に行って欲しくないなぁって、言ったら、寝てたはずのわたしは、父に抱きついて、「パパのそばにずっといるよ。わたしから離れちゃダメだよ、パパ」そう言われた父は、嬉しそうな顔で泣いていたという。

 

時代は代わり、わたしは、母親になった。親の都合で振り回した事はなく、次男は、自分のやりたい事をやって疲れて、夜眠そうになりながら、「夕ご飯」屋で、舟を漕ぎながら、ご飯の後のパフェを食べている。

帰り道は、車で、次男は眠ったようで、あとは、駐車場から家まで歩くだけ。

舟を漕いでる次男を、主人がそっとオブったら、次男は幸せそうにとろけそうな顔をして背中にしがみ付いて、寝入った。そうか、今度は、わたしが言う番なのね。

「この子は、パパの一生モノ」

主人は、横に歩く長男の笑顔と背中の次男のぬくもりを感じて、愛おしそうなとろけそうな顔をして、泣きそうな笑い顔をした。

 

子どものわたしには見えなかった父の表情が、今やっと見れた気がする。

 

 

    このエントリーをはてなブックマークに追加



こんばんは。

 

前に、自衛隊の医務官を行っていた医師もそうだったけれど、壮絶な修羅場を踏んでしまうと、人とはどうも、「ある二極化」に走りがちで、心のバラン スが取れないらしい。かつての、医療事故の後の自分も、修羅場の最中は、とかくバランスを崩しがちで、結局崩してみて、霊能者をやってみたけれど、内実 は、できたから、やっただけ。

修羅場や、人生史上初とも言えるような、土壇場のせめぎ合いを続けると、人間、まぁ、色々おかしなものを視るようにもなるし、多少なり勘もよくな る。精神的疲労や、肉体疲労が重なると、オカルト現象なんて、割とよく見ることが多くなる。それにプラスして、思春期独特のホルモンのバランスが乱れた状 態が加わると、もう、阿鼻叫喚だね。

そもそも、思春期・更年期は、「潔癖」と「穢れ」の中の釣り合いが、自分の中でも取れなくなるから、よく、ヒステリー状態になって、解離状態になる人は多いし、そんな状態だから、余計、なんか視えても、仕方ないんじゃないの。

でも、面白いのは、守られたゾーンで、「見える」ことは好きな大人も、守られないゾーンで「見える」ことには恐怖を抱く。

無論、怖い何かが起きたら、途端にメンタル破綻するような勢いで騒ぐね。お疲れなんだね。

 

わたしが、学生時代、親がどんなに厳しくても自宅に帰り、合法的な自宅の出方が、結婚だったのは、そもそも、わたし、すごく怖がりだから(苦笑)。

 

寝ている時に、音がしたり、あっちこっちで、モノが落ちたらね、普通はやっぱ、臨戦態勢になってしまう。だから、わたしは、独り暮らしをしたことがないし、子供がいなかった頃は、主人が長期出張の際には、もう、慌てて夜は早く寝た。それでも、なんとか暮らせるのは2日間。

だから、親元に帰ったり、逆に、それはどうなんだろうと今思うのは、職場に泊まったりしてたことかな。職場では、独り・・なんだけれど、警備員とかが必ず巡回に来てくれるので、個別にビジネスホテルを取ってもらった時の方が怖かったかな。

 

出張で、1週間、2週間、3週間とかになった時は、必ず、どこかで知り合いに遭うか、意味が分からないけれど、神社に行ったり、仏閣に行ったりとしてて、余程自分は怖いんだなと思ってたから、霊能者になって怖がりが防げるかと思ってたら、違ったんで、辞めた。

 

でも、修羅場や土壇場のせめぎ合いを越えて、そこをリタイアした後に、突き抜けるひと、結構多い。

突き抜けるって、悪い意味での話であって、カルト宗教にのめったり、spiritualに過剰にのめったり、なんか、色々なモノにすがったり、神に なっちゃったり、占い師になったりする人もいる。医師でもそれを押さえられないところを見ると、余程、修羅場耐性というのは、耐性がついても、まだ尚且 つ、人の心は、バランスを崩しやすいんだろうね。

前に、医者に先祖供養が効いたとか、カルテに書かれた時は、その医者とは、すぐに縁を切った。

 

やだね。幾ら、何が効いたところで、オカルトのような、割り切れないものは、まだこの世に沢山あるんだよ。でも、そこで、突き抜けてしまうひとにな るのか、そこでぐっと踏みこたえて、現実に生きていく軸を自分に保ち続けるのかでは、心のバランスや健全さが、かなり違うと思うんだ。

現実に生きてかなきゃいけないじゃん。金はなくちゃ生活できないし、食うもん食わずで、宗教やってたって、あんたの神なんて、どうせ、あんたを救わないって。知ってて、すがるんじゃなくて、あんたは、振り向いてもらえると、毒親にすがるような思いで、すがるんだろう。

毒親は変わらない。これは流石に、世の中のデファクトスタンダードとなったけれど、神も似たようなもんだよ。

あんたに加勢する奴の方が、多少なり、人間に近い、そういった類のもので、あんたは、それを信じることで、修羅場を抜けてきた、もしくは、修羅場から逃げたい気持ちを、現実逃避するんだろう。でも、現実は現実だぜ。

 

あんたが、辛かったのは、辛かったとわたしも思う。誰が聞いても理不尽な話だろうと思うね。でも、それで、あんたは、心のバランスを崩して、それで 終わりにするつもりかい?天使や、神に、あんたの生活の糧を与えたまえとは、祈りの文句にあるけれど、あれは、単に「いただきます」「ごちそうさま」レベ ルと考えておいた方がいいと思うよ。

天使や神は、あんたの生活の金まで面倒見ないし、あんたの老後の面倒も見てはくれないよ。

 

でも、あんたは、それでも救われたいと思うなら、一番痛い現実を見ることだね。怖いことや不可思議なことは、あって当たり前で、まだ解明されてない だけで、解明したら、なぁんだってことになるんだよ。その時、そんなことに振り回されて、怖がって、怯えて、余計な金使ってたら、ダメだろう。カルト宗教 はね、教祖だけが救われる為にあるんだよ。

 

警察官も、自衛隊も、医者も薬剤師も、看護婦も、そして、ITエンジニアも、色々な職業の人が、色々な現象を見て素直に驚くよ。

 

でも、それで、それに囚われて、足元をすくわれて、心のバランスを欠いてはいけないんだよ。

 

わたしは、拝金教だ。拝金教は、一番、大切な地道に働くということを教えてくれる。それが一番金が稼げた時代だったし、これからも、そんな状態でも あるだろうよ。幸せは、貧乏でも味わえるけれど、貧困では味わえない。現実を見て、現実をより良くするために、わたし達は生まれた訳で、突き抜けて、なん か、変な人になったら、アウトだよ。

 

わたしは、かつて、とても優秀な教授と奥様に、知り合いになった。教授はその当時世界的な権威で、優れた頭脳の持ち主で、彼をうならせるウィットを 考えるのがわたしは好きだった。しかし、どういう訳か、教授は、ニューエイジブームにはまって、奥さんは、一日8時間、瞑想することとなり、教授も段々そ うなるようになった。もう、いい年だから、余生は静かに過ごしてほしいと願うが、確かに、あまりに頭が良すぎて、理性的だと、「どこか、突き抜けて、心の バランスを崩すのかな」と、わたしの心に深いトラウマを残した方だった。

 

わたしの父は、そういうことに猛反対な人だったから、ある意味、彼は、わたしに、現実に軸を持って生き抜くことを教えてくれてた教育者だと思う。

 

まだ、この世には不思議は沢山ある。でも、それに惑わされているようでは、「心は健全だとは言えない」と思う。趣味程度に留めておいた方がいいとわたしは思う。妙な使命感や、義務感を主張し過ぎたら、わたしは、あなたを「心のバランスを崩しすぎたひと」だと思うと思う。

でもさ、霊能者やったわたしにそう思われたら、終わりじゃないの?

 

 




    このエントリーをはてなブックマークに追加


こんばんは。

 

よく、悪霊が憑いたと言われるケースで、ひとつ考えられる線は、「解離性人格障害」における「交代人格」である。

あまりに、今の自分には受け入れられるキャパを越えた心の傷を負った時、人は、知らずにその自分を守るような人格を生み出すことがある。こういう人格は、当人の「受け身」な性質とは違い、大変「攻撃的」なので、一瞬、感じとして「悪霊」が憑いたと思い込むケースが多い。

実際は、当人の生活環境を尋ねてみると、かなり心的外傷を背負っていることが多く、知らずに生み出さている。なので、若い子は、若い子なりに受け止 める土壌がないまま、性的被害に遭ったり、ネグレクトに遭うケースが多いので、知らず知らず、このような形が出て、それを周囲は、「悪霊」とはやし立て て、自分達に立ち向かう人格を、必死で潰そうとする。

さて、そんなケースもありながら、割と子供の頃に、イマジナリーフレンドを持っていた人はいるのではないだろうか。

イマジナリーフレンドとは、「見えない友達」である。空想力、想像力が豊かな子が多いが、基本的に、彼らは悪いことを言う事もあるが、助言者であり、救護者であり、友達であり、屈託なく、何でも相談できる相手だったりする。

そのイマジナリーフレンドを持つにあたって、何故持ったかを探っていくと、当人の心には、意外と心的外傷がある事に気が付く。

 

スピリチュアルでは、意外と、守護霊やイマジナリーフレンドを見る人、それと共に歩みたがる人を、喜んでそそのかす面があるが、わたしは、基本的に、イマジナリーフレンドが出てきた際には、自身が、SOSを出している状態であると考える時がある。

 

わたしにとって、イマジナリーフレンドというより、救護者は、夢に出てくる「ある男」になる。その男は、実生活はクズでどうしようもないが、とても わたしが心理的に窮地に立たされた時には、甘い言葉をささやいて、自分がいるから何も恐れなくていいと言う。そして、わたしは、そのイマジナリーフレンド と過ごしたくて、10代の頃、寝ている時間が凄く長かった。

ただ、わたしは、現実の男と、イマジナリーフレンドを勘違いしたおかげで、現実の男は大変クズであることを知った。そのギャップに失望し、殺されよ うとしても掻い潜ってきた自分は、自殺を図ろうとする。最近、イマジナリーフレンドである、「夢の中の男」が出てくることがある時は、自分は肉体面、精神 面で辛いのだなと思うようにしている。決して、現実のその男は、違うのである。

 

そんな中で、イマジナリーフレンドではなく、勘弁してくれと思うモノがある。我が家にたむろする沢山のなんか変な奴である。実はブラインドテスト で、全然関係ない集団からピックアップした人間を、何名か呼んで、この勘弁してくれを見てもらったことがある。勿論、ひとりはspiritualの人で、 数名は、全然関係ない人だった。

彼らは、同じようにそれが見えると言い、同じような絵をわたしの前に描いて見せた。

それで、わたしは、自分の家を徘徊しているこの方が、わたしの「イマジナリーフレンド」ではなく、他人の目に見ても見えるものであるという事に深く 驚きを感じた。実は、わたしは、聖母マリアの像を、「深夜の理性のない時間帯に衝動買い」したのである。これは、ある人の家に伺った時、ある奇妙な体験を したので、同様の事が起きるかと思って試してみたことなのである。

ある人の家には、玄関にバリの女神像が置かれていた。

一見は、普通の像なのだが、この像は、よく置いてある場所から動いてきて、歩きまわっている。ついでに言えば、わたしが、そのお宅に伺って、うとう とすると、その女神は、姿を現し、「あーだの、こーだの、口やかましく言う。」。あまりに、面白い現象だったので、その家の人間に尋ねてみると、こんな話 を聞く事ができた。

「玄関に女神像が欲しいと思って購入したら、家族から、家じゅうを歩き回る女がいる」という話を言われた。しかし、職業柄、自分以外であれば、自分 の客である。しかし、出歩く時間は、家族が帰ってくる夜である。なので、恨みを持たれた生霊かとも思ったが、正体を見たいと思った家族が、その女の後ろを ついて行ったところ、像のところで、すっと消えてしまった。しかも、像と同じ服を着ていた。

自分の家を訪ねる人は、必ず、この像に家のどこかで出会うと言う。」

 

これを聞いて、面白いと思わぬわけはない。画して、わたしもバリの女神を探したが、あいにく縁がないようで買う事ができず、恐ろしいことに、聖母マ リアで手を打っちゃったという訳である。まぁ、聖母は元々、そういう噂が絶えぬ人なので、基本路線はOKであったが、わたしの家で歩き回っていたのは、天 使はいるわ、象はいるわ、聖母マリアは歩くは、そうこうしている間に、生霊も怨霊もあわせて「多国籍の存在するごっちゃな空間」と化してしまった。

これは、たまたまの話である。

ところで、わたしはだからと言って、これら歩くモノをイマジナリーフレンドにし、自分の助言者であり、救護者であり、友人であり・・・・という事は 求めることはない。歩きたい人は勝手に歩けばいいのである。わたしが、共に歩む必要などない。歩む必要があるのは、わたしの緊急時に出てくる、恐らく、わ たしの理想の異性像にして救護者である「イマジナリーフレンドである、男」で十分である。

さて、わたしは、イマジナリーフレンドと夢の中で熱いひとときがある訳ではなく、ただ、普通に暮らしている。そのフレンドにあるものは、「尊敬と憧 れ」だけである。それで終わりである。そのフレンドがささやく言葉は、きっとわたしが生涯かけても、どの男からも貰えない「甘いセリフ」である。このイマ ジナリーフレンドは、「強い女」だと思われてきたわたしが、心的外傷を得て、PTSDからDID(解離性人格障害)になりそうな自分を救済する「真に求め ていた言葉」を言うアイテムであっただけだ。

ちなみに、わたしの生活では、主人は、到底救護者になれそうもなく、恐らく当人もその気がないであろうと思う。息子に救護者を求めるような、そんな 馬鹿げた母親ではないので、わたしにとって、イマジナリーフレンドは、ある意味、精神の脆弱性から崩れ落ちそうな時に、心を強化するレジリエンスのひとつ である。

レジリエンスを持っておくと脆弱性をカバーできるため、常にわたしは、ユーモアというレジリエンスと共に携帯してある。守護霊と呼ばれたがるイマジナリーフレンドには、そんな役目がある。

 

さて、解離性人格障害の中では、時として、「Internal Self -Helper」と呼ばれる存在がある。ゴチャゴチャして、自分のエゴだけ通そうとする自己中たちの集まりの「交代人格」の中で、半ば神的な「人徳を備 え、まれにみる正義と倫理で、交代人格を整理してくれる守護的なスタンスの人格」がいる。しかし、この人格は、既に、そもそも、頼りなく、この人格だけで あれば、うまく行くわけではない。

常に、このISHは、自身を整理する為のツールであり、神とはそんなものである。なので、時々、交代人格が、ISHのような発言をして、似非を気取 るが、それに迷わされてはいけない。神は、人の中にいて、だけれど、人を支配せず。人の中が乱れて、混沌とした時に現れる最終システムのようなものであ る。

この最終的なファイナルアンサーをどこで使うかというのは、一番迷いやすいところであるが、カードゲームであれば、誰もが簡単に考えるだろう。そう だ、ワイルドカードは、最後まで取っておくものだ。最後の最後の切り札として、使用してこそ意味がある。始めから、ワイルドカード乱発では、効き目は薄 い。

 

という事で、津々と述べてきたが、あなたの守護霊は、あなたのイマジナリーフレンドではないのか。あなたは、それを人に見てもらって、人にしか見え ないイマジナリーフレンドを、自分の中で、妄想として作り上げるのだろう。だけれど、そのイマジナリーフレンドは、あなたが辛すぎるから、あなたの前に現 れた、「あなた用にカスタマイズされた、あなたの言ってほしい言葉を囁くアイテム」である。イマジナリーフレンドだけと暮らして行ける環境は、この世には ない。

だからこそ、守護霊や、何やで、あれこれ思い悩む人がいるとは思うが、人から「決められた」イマジナリーフレンドで遊ぶ前に、そもそも、家の中を見て見た方がいい。意外と、多国籍空間は、うちだけの登録商標ではないことに気が付くはずだ。

 

多国籍空間に、霊がいたら、あなたが、楽しい事、嬉しい事、悲しい事、辛い事を経験すると共に成長し、言葉を交わさずとも離れていくだろう。それより、死神だったら、優しく、

 

「どっかの誰かに押し付ける」か、「排泄物として水洗トイレに流す」か、「何かに擦り付けて、萌えるゴミに出してしまえ。」

 

あまり、自分以外の何かに囚われてはいけない。神は、あなたの中にいると思えばいい。

 

傷ついた心的外傷を、無理に癒せない時は、一生癒す必要もない。神がいるのか分からなくなっても、見失うな。神が目の前に現れない時は、あなたが、 まだ最終的に、ダメージを受けたわけではないのだ。傷ついた自分を救うために、更に人を傷つければ、もっと神を見失うだろう。また、金勘定や何かの為に、 人を粗末にして歩けば、もっと神から遠ざかろう。ひとを粗末にできる人に、自分を大切にできるわけがない。落ちぶれて、孤独になった時、自分を大切にして くれと叫ぶのが落ちである。

しかし、神に近くなればなるほど、人は息もつけない程、深く傷つくという事実は、大変理不尽な話である。

 

 




    このエントリーをはてなブックマークに追加



こんにちは。

色々と巷には成功哲学の本がたくさん並んでいる。人はそれを手に取り、できそうな項目をざっと見て、簡単にできそうで、しかももっと詳しく知りたい 場合のみ、その本をレジへと持っていく。つまり、売れる本には、何が書いてあるのかと言えば、誰にでもできそうだけれど、ちょっと知られていない秘訣が書 いてあるのである。

成功したいと考える人は、極端に言えば、「見栄っ張り」で、「他者評価に弱い」。「苦労しないで、人を見返したい」という気持ちを持っている。

成功哲学は、実はそういう人向けの商品で、そういう人が手に取って買ってくれるように書いてあるので、具体的にやる気にはさせてくれるけれど、突破口に対する自己解決能力の育て方については、一切触れていない。

 

基本的に、SEやプログラマは、自己解決していく仕事なので、自己解決能力は高い。でも、何故、彼らはいつもメンタルを病むのか。どうしてそういう 職業ほど、メンタルを病む人が多く存在するのか。そこには一切触れていない。理由は簡単である。SEやプログラマは、自己解決能力は高いが、コミュニケー ション能力は低い。元々メンタル面で弱い人間が集まりやすく、そこで自身はコンピュータを相手にするが、かといって、自分はコンピュータのように扱われる のは嫌だと言うパラドクスがある。

プレッシャーに弱く、ここぞという時に、体調を崩しやすい。本気を出していないという訳ではなく、彼らはいつも真面目なのである。

そういう人に向けて、努力は努力と思ってはいけない等と話をしても無駄な事である。

 

けれど、一般の人は、まず、自己解決能力さえおぼつかない。今日中にこれを仕上げて、他にこれをやっておけば、今度は楽になるという見通しを立てな い。今日中にこれを仕上げたら、仕上げたので、暇になったから、ネットを閲覧するというのが、実情である。その後、自分が何をやらなくてはいけないのか は、全く一切、頭の中にはない。

成功哲学を読みたがる人は、大体、こんな人が多い。何も次へ続く努力を考え付かないので、考え付こうと言われても、「そこからができないので、意味 がない」のである。他者の評価ばかりを気にして、人の仕事ばかりを気にする人は多い。けれど、そういう仕事では、上に登らないだろう。できることは、取れ ぬタヌキの皮算用ばかりである。

 

故に、次に続く努力を考え付くための教材をしこたま買い込んでくる人もこういう人である。

喜んで、これでできる自分になったと思って教材を買うが、そもそも、応用力が育っていないので、応用力を身に着けることが一番大事なのであるが、教材はそんなことを教えてはくれない。

 

それで、結局、どうしたらいいのか、周りを見て焦るばかりである。

 

結局、成功哲学というのは、お金を積んでも、他者の評価に左右されがちな、あなた自身には、気休め程度の内容しかない。もし、本当に天才的なひらめ きができる人がいたとする。その人の考えは、その人が説明しても、一般的に理解しにくい。何故なら、この人は、この人なりのひらめきで、努力をし続ける。 あなたに、目標の件での努力のひらめきがないのは、それは、あなたには、欠落している創造力という部分だからである。

努力のひらめきは、意外と簡単にできるわけでもなく、100人天才がいれば、100通りである。

 

そんな中で、あなたが教材を買って、教材貧乏になるのもいいが、結局は、その成功哲学の本を書いている人のカモになるだけである。成功哲学の本を書 いている人は、いかにもな、「場所」に住み、いかにもな「持ち物を見せびらかし」、いかにも、あなたに自分が「成功したと思わせる」演技をしている。その 内実は、結局は、教材を買う人で儲けるだけのさもしい奴である。

 

本当の成功哲学は、失敗し、挫折し、その中で己の経験則を十二分に生かすやり方しかないとわたしは思うが、その素質がないのなら、諦めて、まず、直面している問題解決から挑んだらどうかな。

 

 

成功哲学
ナポレオン・ヒル
きこ書房
2001-08



    このエントリーをはてなブックマークに追加


こんにちは。

ガセネタもガセネタな話ですが、話す人が、どういうステータスになっていると、そのガセネタが信用されるのかといういい教訓があるので、ちょっとお話ししておきますね。

誰もが知っている企業で働く方に、ちょっとインタビューしたんです。

その方は、結構な会社を渡っていて、割と知名度の高い会社を渡っているほか、管理職なので、ほんのちょっとしたいじわるではなく、誰でも知っているでしょ?程度なノリで、話をしたんです。

そしたら、かなりトンデモない話をされたんですね。

わたしの好きなミラーマンこと植草さんですが、植草さんが、「実は総務省大臣になる予定だった。」という話を平然とされるんですよ。

 

それで、わたしも、あまりにその方が熱弁をふるって、あなたは知らないことがおかしいような口調で話をするので、どこのソースなのか、尋ねたんですね。そしたら、ソース元は明かせないけれど、確かな情報ですから、信じてくださいとのこと。

 

うーん。

 

しょうがないんで、わたしも、わたしのソース元に電話して聞いてみたんですけれど、そんな予定があったこともないし、そもそも、誰も相手にしてないし、そもそも、あれだけ世間を騒がせた人が、何故大臣になる予定なのかと豪語するのか、笑われて終わりだったんですね。

 

前も、確か、「政財界のご指南役になる」とか言って消えた霊能者が、復活してきているんですが、政財界のご指南役ねぇ。大きな嘘ですよね。霊能者や占い師は、この手のネタ好きですね。ホント。

 

誰の?どなたの?あなたのお話、そんなにありがたいんでしょうか。嘘つくのは、女口説くときに年齢をごまかす程度にしてとは、思いましたがね。

 

 

社会的ステータスや、ある程度知名度を得た人が、流すデマって、比較的「信頼度」がステータスで強化されるので、嘘かどうか確かめることさえ、しな くなる人多いです。本を出版している出版社に寄るステータスでも、強化されるので、昔、ブログが流行ってた頃、そのステータスで売ろうとしている霊能者や占い師が沢山いま した。

 

でも、デマはデマです。

 

真実は、それじゃどうなのかとなると、真実は、民衆のジャッジメント(あり方)によるのだと思うのですよ。

 

その人の肩書や、ステータスによって、「メクラ」で信じてちゃダメです。あなたのジャッジメントが正しいかどうかは、誰が、どう責任を取るべきなん でしょうか。あなたが「愚かな民衆」に成り下がるのか、それとも、格差を乗り越えて、愚かな政治家に操られない「利発な民衆」と化すのかは、あなたが決め ること。その選択は、あなたが責任を取ることになるのです。

 

 

 

あなたが、騙されていることを尊ぶなら、死ぬ瞬間まで、だまされ続けなさい。

もし、騙されていることがお嫌なら、死ぬ瞬間まで、自分の目で確かめなさい。

 

 

 

信頼性を強化する為の社会的ステータスですが、デマ平然と言ってのける人が、誰も知っている会社の管理職だと知ったとき、衝撃走りましたね。あんまり変なこと言わせておくと、その会社のイメージダウンに繋がりますからね。

社会的ステータスを得たとき、人は、それを守ろうとして、逆に、デマを流さないようにすると思うんですがね。恐らく、その方は、分かっていないんだと思うというか、何かで、「自身には強力なバックアップがいる」という誇示をしたかったのかもしれません。

 

まぁ、実際、蓋開けてみないと分からないこと多いですよ。

 

でもね。真実を知りたいと思うのなら、少なくとも、「確かな情報」ってだけで話をしている人や、肩書だけで、「誰もが見てわかる嘘をつく」人を見切る目は養ったほうがいいですよ。

 

わたしも、いいネタができたと思ってその場では否定せず、場を辞退したのですが、馬鹿馬鹿しいですね。

 

そんな話を今、思い出しました。

 

 

 

後日追記ですが、この方の情報では、半沢直樹次回作は、映画になるという話だったんです。わたしは、映画にしないと思っていたんですけれどね。なん でかって?こんな視聴率が取れるもの、テレビ関係が離すわけないじゃないですか。って結局、テレビで次回作になったそうですね。

でも、結局、主役が難航し、現時点もいつ放映か分からないですよね。

「絶対信じて」。って言われても、信じませんよ。

本当にあった世界の陰謀論案内
世界陰謀評議会
笠倉出版社
2014-09(ハイハイ、あったあった。では、今度はどんなコンテンツ?エンターテイメントですよね。)

(わたしは、この著者、凄く嫌いです。わたしが患者だったら、医者としてお願いしないですね。カルテに、先祖供養で良くなったと書く医者さえも、嫌いですからね。)


    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ